医者の適正な報酬

医師不足が都市部地方を問わずに深刻化する中で、医師の破格な給与が新聞紙上をしばしばにぎわす。優秀な医師には高額の報酬は当然という意見がある一方で、多くの国民にとって数千万円の報酬は医師が得ることに素直には納得できないものもあると思う。
私も開業医の端くれであるが(いまやもう普通の開業医とは呼べない仕事の形態になってしまっているが)、所属医師会の会長に貧乏くさいと面と向かって言われるような生活をしているので、一般庶民の生活感覚も失っていないはずである。
そこで医師の報酬問題について、改めて書いてみようと思う。
このことにつてはすでに何度か書いてきたが、最近の情勢をふまえて改めて書いていこうと思う。
内容は
1)プライマリケア医の報酬が専門医より高いのは日本とデンマークだけ。退職後の給与が現役時代よりいいのはなぜ
2)勉強の出来る子はなぜ医学部に行きたがる
3)高度な技量のある医師は数億円の年収でも良い
4)公的保険から支払われる限り収入に適正な水準があるはず

といったことを中心に書いていきたいと思います。
その中で医療を崩壊させない方策を私なりに書いていきます(かなりの独断と偏見ですが)。

緊急地震速報

ドコモの905iシリーズには、緊急地震速報の機能がついている。auを使っているのだが、auは3月以降の対応とのこと。やはり普段使っている携帯電話に緊急地震速報の機能がついているのはありがたい。

ブロック塀から離れるとか、火を消すとか、なんか出来ることもキットあるはずだし。

僕の住んでいるところは、災害予想マップでは、もっとも危険度の高い地域に属する。安全なところ、例えば沖縄に移住すればいいんだろうけれど、生活やしがらみがあってなかなかそういうわけにはいかない。

人間て難しいものですね。

あけましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。

更新を随分とさぼってしまいました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

さて、新年早々株価の大幅下落、新聞を開けば暗い未来予想ばかり。

日本中なんだかうす曇の状態です。

しかし、僕のつたない経験から言えば、日本経済新聞が一面で暗い予想図を並べ始めると、逆にいろいろチャンスが到来することが多いのです。

例えば中国は発展していますし、これからもどんどん豊かになるでしょうから、日本も当然それに参加して、おおいに稼がしていただかなければいけないわけです。でも、中国が発展するからといって、日本が落ちぶれていくわけではないのです。日本には職人業もあります。アメリカと空母艦隊決戦を戦った意気もあります。さまざまな要因で負けてはしまいましたが。

悲観ばかりしていては何も変わりません。そう簡単に天は落ちてはきません。

というわけで、明るい未来を皆で作っていきましょう。

本年も宜しくお願い申し上げます。

梅雨

なかなか書き込めません。あの忙しいドリカムの中村正人さんでさえ毎日ブログを更新しているのですから、僕如きが忙しいといってらばちがあたります。先日のNHKのSongsという中年向けの音楽番組でドリカムを見て以来、久しぶりにドリカム熱が再発しています。もともと好きな音楽で、吉田美和さんも大好きだったのですが、CDも棚の奥深くにしまわれてしまっていたのですが、パワフルな映像を見ると、またまた聞きたくなり、持っているCDや新に購入したCDをiPODに落として、毎日ずっと聞いています。国立競技場のコンサートにもなどど思ったのですが、9月25日のコンサートは当然もう売り切れ。札幌のコンサートも売り切れですな。

まあきっとあとでDVD出ると思うので、それを買って楽しみます。

NHKのSongsをみて思うのですが、僕の好きな音楽はもうとっくに、立派に懐メロですね。五つの赤い風船、大貫妙子などなど。もともとオジサンだった西岡たかしさんなど当たり前ですが、もうおじいさんになっていました。鈴木ヒロミツさんも、石立鉄男さんも亡くなってしまいましたし。石立ドラマで1971年放映の「おひかえあそばせ」は、当時中学生だったのですが、毎週見ました。宮本信子さんにはあこがれたものでしたっけ。

ゴールデンウィーク

皆様はどのようにこの黄金週間を過ごされたであろうか。僕は暦どおりに休み、働いた。4月28日は茨城まで出張麻酔。29日と30日は山中湖に家族旅行。5月1日は埼玉の病院で出張麻酔。2日は自分の医院での外来診療と往診。そして3日より休みだが、4日に山登りに一人で出かけた以外は家で過ごしている。

4日に出かけたのは 瑞牆山(みずがきやま)という奥秩父のやまである。甲府盆地からも南アルプス側に少し上げれば眼にすることの出来る花崗岩の屹立する特徴のある山である。登山路自体は危険なところもほとんどなく、また100名山とあって、下山中に、少なく見積もっても200人以上の登山中の人とすれ違った。中には両親に連れられた運動靴の小学生も混じっていたが、2230mの頂上直下の稜線はまだスケートリンクのようにつるつるに氷結していたから、転んで怪我でもしなければよいのだが。臆病な僕はたった30mほどではあるけれど、しっかりアイゼンをつけて歩いた。天気は極上で、頂上からは八ヶ岳、南アルプス、奥秩父の山並みがくっきり見えて最高の時間を過ごした。
山に登らない人でも、登山口の瑞牆山荘なでは道は完全に舗装されているし、山荘近辺の散策だけでも楽しいし、少し登った富士見平まではスニーカーでいってもまったく問題ない道なので、是非お出かけになること勧めます。

4月の日曜日

15日の日曜日は一人で丹沢に行ってきました。山登りに興味のない人や、東京近郊に住んでいない人にはどこのことかわからないかもしれませんが、東京の西、ちょうど富士山との間に広がる神奈川県の山地です。最高峰の蛭ヶ岳が1673mなのでそれほど高い山ではありません。東京近郊で、交通の便がよいので人気のある山域です。

15日は朝4時に起きて、車で丹沢の登山口の一つである大倉に6時に着きました。すぐに出発。大倉尾根を登りつめて塔ノ岳(1491m)。東京方面と富士山、そして遠くは南アルプスのパノラマが広がります。そのまま丹沢山(1504m)をへて丹沢山塊の最高峰である蛭ヶ岳(1673m)まで縦走です。気持ちよい稜線歩きでした。蛭ヶ岳からは姫次を経て、道志川沿いの青根まで急降下します。全部で9時間半、距離にして二十数キロメール、累積標高差でたぶん1700mくらいのちょっとした山歩きでした。幸い天気に恵まれて、左手には富士山、振り返れば相模湾、右手には神奈川から東京にかけての市街地を眺めることができました。帰りはバスと電車を乗り継いで大倉に戻り、車をピックアップして帰宅の途につきました。

愛鷹山

筆者の趣味は山登りである。と言いつつも、若い頃から時々山には登っていたが、趣味と言えるほど山に登るようになったはここ2年ばかりのことである。今年は1月に高尾山と筑波山、2月に天城山と登った。そう、経験も体力もないから雪のある冬山は登れないのである。3月25日には東京を4時30分に出発して愛鷹山に行ってきた。正確に言うと登山口の駐車場まで行って来た。東京を出るときは小雨だったのだが、御殿場、裾野と近づくうちに、よこなぐりの豪雨となり、登山口の駐車場では、車から出ることさえも出来ないような豪雨となっていた。下山予定の別の登山口への林道は川となっていた。というわけで、あえなく敗退となった。今年の夏には初めての縦走を北アルプスで計画しており、なにしろ足を鍛えなければいけないのである。4月には、距離27km、累積標高差たぶん1500mを1日で歩ききろうと無謀な計画を立てている。コースタイムで11時間。天気しだいである。土曜日も働いていて連続の休みが取れないので通常1泊2日を1日でこなそうと考えている。

幸せすぎることによる不安感

三丁目の夕日をごらんになった方は多いであろう。舞台は昭和33年の愛宕周辺といわれる。筆者が生まれて1年後。日本が高度成長に向かい始める頃で、町には活気が溢れていた。がしかし、今と比べて、暮らしやすい時代だったのであろうか。確かに若く、活気に溢れた時代ではあったかもしれないが、今の方が尾より多くの人が幸せに暮らしている。当時東京で防空壕跡を住居にしていた人2万人、公務員の初任給一月分以下の年収が12万世帯。まあ要するに皆貧乏だったのです。青少年の凶悪犯罪も今より多かった。今はみなが衣食足りて、帰って未来に不安になりすぎているのではなかろうか。筆者は小学校入学前後の数年を沼津市内で過ごしたが、家の前の道は舗装されておらず、毎日通る馬車の馬の落し物が落ちていた。 橋の下には乞食が住んでいて、うちにもお金を貰いに来て、5円とか10円を両親はそのたびに渡していたように思う。町のアーケード下には傷痍軍人の悲しいアコーディオンのメロディーが流れていた。今の時代は多分日本の歴史上もっとも庶民が幸せな時代と思う。だって子供が生まれても間引かなくてもいいんだよ。だから皆この幸せを失うことを恐れて、過度に不安になっているんだ。それはちょうど、健康な人たちの健康ブームのようなものである。


上馬クリニックのブログへようこそ
 | Welcome to Kamiuma Clinic Weblog | Herzlich Willkommen !
 03-3418-5806